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「展示によせて」2020. 2. 16

 人類が使用している技術や作品制作における技術、そして技術によってつくられたものは、すべて「記憶」と呼ぶことができるだろう。例えば、技術の一つである道具は、使用者にそれに適した動作を引き出させるものであると同時に、道具が用いられる素材とも繋がっている。人類学者のアンドレ・ルロワ=グーランは、技術を「外在化された人工的記憶」と捉えた。道具はそれ単体では存在しえず、必ず何らかの「記憶」と紐付いているのである。

 また、目的への想像力がさまざまな技術を生み出す原動力になっているということは言うまでもないだろう。制作者もまた、「作品を完成させる」という目的への想像力を持ちつつ、そのために多様な技術を生み出しながら自身の表現を可視化してきた。

 私がこのような無数の点を用いた作品を制作しはじめた背景の一つには、「表現することへの疲れ」がある。単刀直入に言えば、美術作品は必ず「何か」を表現していなければならないし、オリジナリティが求められる。そして、過去につくられてきた作品と外見上、類似していることは許されない。鑑賞者もまた、その表現された「何か」を正しく汲み取らなければならない。このような無数の暗黙の了解がある。私は、このような表現上の了解に疲れてしまったのである。パネルにひたすら点を打つという作業は、このような疲れから、表現しようとする意志を極力排除した結果に生まれたものである(これも表現である、という指摘はさておき…)。だからこそ解釈の幅が生まれ、鑑賞者にさまざまなイメージを想起させる可能性のあるものになりえると私は考える。

 あるとき、「これが私だ、というものがなくてはならない」と作品について評されたことがあるが、このような指摘も美術の辿ってきた歴史を考えれば当然のことであろう。しかし、美術作品が必ず「何か」を表現していなければならないということは、反対に、何かを説明していない(ように見える)創作物は存在してはいけない、ということに変換されうる可能性を持っているだろう。現代美術には一見すると難解なもの、不快なものもあり、また何を表現しているのかが明快でないものも多いと言われている。しかし理解不能であるからといって、それらを無意味なもの、排除すべきものとして扱うことはできないだろう。なぜなら、自分自身も容易に「無意味なもの」になりうる可能性を持っているからである。

 目的への想像力を持ちながらも、それそのものを減衰させたり、変質させたりするような技術は創作活動に特有なものであると私は考えるが、そのような一見して「意味がない」技術、自己そのものを変質させてしまうような技術こそ、あらゆる制作者が思考していかなければならないものである。なぜなら、「意味がない」ものと共存できる世界こそ、人類が途方もない時間をかけてつくり上げてきたものだからである。

 

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「修士課程修了論文(要旨)」2019. 3. 31

 私たちは、高度なテクノロジーが社会の隅々にまで浸透している現代において、技術とは何かを十分に考える機会を失いつつあるように感じる。その原因のひとつは、既存のテクノロジーが引き起こすさまざまな問題の対処へまた新たなテクノロジーが要求されるという際限のない循環に、私たちが無意識のうちに巻き込まれてしまっていることであろう。また、テクノロジーによってつくられる時間は、人間の知覚の限界をはるかに超えた速さで一瞬のうちに過ぎ去っていく。この循環と速さは、かつては都市に特徴的なものであったが、現在ではあらゆる地域にまで浸透している。そこでは人間それぞれが特異性をもち、誰とも代わることができない存在ではなく、機械の電源を入れて操作するだけの、あるいは情報を入力するだけの存在になりつつあるように思える。そして以前にも増して技術が不可視なものとなり、どのような広がりをもって運用されているのかを考えることが困難になっている。このような状況は、近年におけるスマートフォンの普及によりさらに加速しつつあるだろう。それは、アンドレ・ルロワ=グーランが論じた「外在化された人工的記憶」としての技術のひとつの極致である。検索すれば即座に分かるということは、つまり知っていることと同義である。人間は一方では全知全能の「神」に近い存在になりつつ、他方ではテクノロジーの「奴隷」となっているのである。

 伊藤徹は、「近代的な発想にしたがえば科学技術の操作主体であったはずの人間が、ここ〔現代の世界〕では科学技術によって作られつつ」あり、それによる「主体なき支配」が行われていることを指摘した。人間は労働や交通の時間、テレビやインターネットなどのメディアの時間といった、一定のリズムで刻まれている技術の時間に無意識のうちに支配され、それに順化しているが、これは人間がどうあるべきかといった哲学的、実践的な領域にまで科学技術が侵入しつつあるということでもあろう。近年では「インスタ映え」などに代表されるように、表現ですら技術によって限界づけられ、画一化される傾向が強くなっているように思われる。ベルナール・スティグレールも同様の問題意識から、このようなテクノロジーの浸透した現代の資本主義社会は、情報・メディア産業をつうじて人間の意識、精神を直接に開発・搾取する「ハイパーインダストリアル社会」の段階にあり、人間の欲望ですらテクノロジーによって規格化されると指摘した。現代社会に生きる人々は、誰とも代わることができない特異性を持った「個」つまり「私」になるための実践の契機を無意識のうちに奪われているのである。このような状態をスティグレールは「象徴の貧困」と呼び、その「貧困」から脱するためには、他者や他なるものとの関係性のなかで規定され、流動する可能性を常に秘めている存在としての「私」に敬意を抱くという「本源的ナルシシズム」を取り戻す必要があると述べた。こうした状況において、技術と向き合い続ける存在である制作者は、現代社会にとってどのような存在であり、またどのような存在になりえるのだろうか。そして制作活動は一体どのような意味を持ちえるのだろうか。現代の技術が引き起こす問題により「個」の喪失が起こるならば、常に「個」と向き合いつつ、同時に技術とも向き合わなければならない制作活動を「個」になるための実践の一形態と位置づけすることも可能であろう。

 本論文の目的は、このような実践を行う制作者が、どのように技術との関係を構築すべきかを考察することである。そのために、筆者の制作者としての礎でもあり、また常に技術と密接な関係にあった工芸の視点を導入する。近代以前には「工業」や「わざ」と呼ばれ産業の中枢を担ってきた工芸を再考することで、現代の技術が制作活動にもたらす諸問題を乗り越えていくための新たな手がかりを得ることができるのではないかと筆者は考える。なぜなら工芸は現在に至るまで、技術と「芸術」のあいだを揺れ動く存在でありつつ、両者からの要請をレジリエンス(困難な状況においても、しなやかに対応して生き延びる力)をもって対処してきた歴史を有しているからである。

 序章では、現代のテクノロジーがもたらすさまざまな問題について述べ、それを解明するには、制作活動における技術、つまり「個」に関わる技術を検討する必要性があるということを指摘する。そのためにはまず、人間における技術の意味をその起源から理解する必要がある。したがって第1章の前半では導入として、現代の技術哲学や「アクター・ネットワーク理論」を主に参照しながらその意味を探求し、技術がいかに多様なものであるかを論じる。後半では、制作に関係するさまざまな要素と技術、そしてそれらの関係のなかでつくられる制作物と外部との相互作用に着目する。第2章では、筆者の専門領域でもある「工芸」の問題と可能性を技術論の視点をとおして読み解くことを試みる。第3章では、本論文をふまえつつ自作品の制作を行うことで得られた視点から、再び技術について考察する。終章では結論として、これからの制作者がどのように技術や表現との関係を構築すべきかを論じる。

 ジャン=リュック・ナンシーによれば、プラトン以降の西洋の「美」の歴史は、いかにして「芸術」と技術を分割するかということに、つまり「芸術」制作における手仕事的・技術的な側面をいかにして「隠蔽」し、それを純粋に精神的なものとして位置づけするかということに腐心してきた。そしてこの分割は、「わざ」の体系として理解され、工芸的傾向を有していた日本の美術の伝統とは本質的に相容れないものであった。主として2000年前後から、技術と表現や「技術的熟練と美的洗練」を二項対立的なものでなく相補的なものとして再考しようとする動きが、特に人類学や技術哲学の分野から始まっている。本論文においても、制作活動における技術を手段や技巧としてではなく、対等な「行為者」として位置づけすることで、そしてそのような状況において「技術的熟練と美的洗練」の相互作用の質を問うことで、制作活動における新たな視点を提示しようとしてきた。そのためには人間が技術に一方的に支配されるのではなく、その影響力を適切に理解したうえで関係を持つことが必要であり、また自分を拘束している環境(技術)に関与できる可能性を持ち続ける「自由」が必要であることも論じた。「工芸」のみならず現代美術においても、技術を「行為者」として認めることによって、それを「芸術」の特権的位置から解放することができる。そして、これにより制作者や作品を社会—すなわち、「他者や他なるもの」との関係—に接続することが容易になるだろう。本論文における「個」になるための実践とはこのようなものである。エルンスト・カッシーラーは「技術的創作における純粋な体験内容と芸術的創作における純粋な体験内容とを考えてみれば、両者の間にはどこにも正確な境界線を示すことができないように思われる。集中度においても、豊かさにおいても、情熱的な動きの激しさにおいても、一方が他方に劣るところは何もないのである」と述べたが、そもそも作品制作において、「技術的創作と芸術的創作」は分割できるものではない。技術なき表現はありえないし、表現なき技術もまたありえないのである。あらゆる「美術」もまた、この分割を無効化することによって始めて、技術と表現の相互作用の所産として包括的に理解することが可能になるだろう。制作活動における技術と表現のあいだには境界線がなく相互に浸透しているものだということは、言うまでもなく制作者自身がいちばん実感しているはずである。しかし、その実感は「芸術」という〈制度〉が内包する形而上学的な図式やヒューマニズムによって「隠蔽」されてきたのである。したがってそのようなものこそ、これからの制作活動を考えるうえで私たち制作者がまず乗り越えなければならないものであろう。

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